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あかし

〜 神様との関わり、信仰に至るまでや、主への賛美など 〜
ここにあるのは、そういう私たちの喜びがつまった「あかし(証し)」です。
スタッフ(牧師や宣教師)のあかしと、一般の教会員のあかしがあります。

どちらから読まれますか?

新しい私 MY

主イエス様を知る前の自分の状態は、精神的に弱く逃げてばかりいて自己中心的でした。昨年の4月から、この教会に来ていましたが、魚住の方へ引っ越し、遠くなったので来れなくなりました。近くの教会を探して行きましたが、やはり明石キリスト教会へ行こうと決心してバイクを買って、この教会に通うことにしました。この教会で聖書を買い、み言葉を教えて頂きました。『キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊において生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。』(Tペテロ3:18)『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』(ヨハネ1:12)私の罪のために十字架で死んで下さったイエス様を信じるだけで罪が赦され神の子どもとされる事、そして、永遠の命が与えられる事を知り、今年5月にイエス・キリストを救い主と信じ、心に受け入れました。その後も聖書のみ言葉を学びながらイエス・キリストの神様に導かれて新しい人生を歩んでいきたいと願っています。イエス様を心に受け入れてからは、自分の問題を神様に祈れるようになってきました。心に平安が与えられて気持ちが強められている事を感謝します。現在、心に握っているみ言葉は、(箴言3:5〜6)『心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。』です。み言葉に照らされながら一歩一歩進んで行ける事を感謝します。

救いのあかし YH

私は神様がいらっしゃることは知っていました。時には、感謝の祈りをすることもありました。しかし、多くは神の存在を忘れた生活をしていました。物事を楽な方へ考え、行いの結果が良い時は自分の努力の賜物と思い、うまくいかない時は他人のせいにし、悪意とねたみの中で有頂天になったり、落ち込んだりするような愚かな生活をしていました。5,6年前から毎月クリスチャン新聞を届けて下さる織田様が近くにいらっしゃいました。その織田様が「家で集会をしようと思うけど来られる?」と誘って下さいました。それが、山脇牧師先生との出会いでした。聖書の学びをするうちに、自分が罪人であり、イエス様が罪人を救うために、この世に来られたこと、そして、十字架に架けられたイエス様を通して神様とお話が出来るということがわかりました。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」Iテモテ1:15神の御心にかなう生活をしたいと思います。信じた後は、「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。」ヨハネ16:24このみ言葉に勇気づけられます。これから、何でも祈り、神様に身を委ねて行こうと思います。

聖書のことばと賛美歌によって          森 昭三

 ある人に何回か教会に誘われたのですが、どうしても中に入れなくて帰っておりました。
大阪に大きな集会があったので、連れられて行きました。
その時、聖歌480番の賛美の独唱がありました。
すごく、感動し、救いの招きがあった時、自然と前に出ておりました。
その後、どのように祈ったらよいかたずねた時、ヨハネ伝3章16節のみことば「神はそのひとり子をたまわったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」との聖書のことばを何回も、声を出して読み覚えました。
いつの間にか、祈りの姿勢をとっていたようです。本当に悪い思いから離れ、イエス様の愛と救いを覚えるものとされていきました。
 
このイエス様に愛されている喜びがあふれ、汚れた罪からの解放とゆるしをいただいた大きな喜びで、朝も、昼も、夜も、賛美を口ずさんでいました。そして、聖書を良く読めるように、へたくそな読み方だけど、読み続けられるよう助けて下さいと祈りました。
イエス様はどんな時でも、いつもいつも助けて下さって、弱い私を強くして、明るい力を下さり、大声で聖書を読み、また、みことばを書く事を教えていただき、毎日毎日イエス様と生きている幸いを実感しています。

神様に愛されて      Y.K

 高校3年の秋、はじめて聖書に出会いまた、教会の信徒の方々に出会い、私は変えられていきました。み言葉を学ぶことで心が潤され、教会の先輩方を見て、「私もこんな風に年を重ねていきたい」と願わされました。それから、3年間、神様は様々な出来事と出会わせ、色々な経験を与えてくださり、また、多くの方に祈られて20歳の秋、受洗の恵みにあずからせてくださいました。

  神様に出会う前は、愛されている実感がうすく、自分が嫌いで何かに懸命になっていないと不安でしょうがない私でした。でも、神様はそんなちっぽけな私にさえ目を留めて下さり、
『あなたは、私の目には効果で尊い。わたしはあなたを愛している』とみ言葉を通して語りかけてくださいました。『いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝せよ』(Tテサロニケ5:16〜18)このみ言葉を心に新しい一歩を歩みはじめた20歳の秋、あれから16年が過ぎた今、たどたどしい歩みではあるけれど、変わらぬ神様の愛を感謝し、喜びを数えつつ日々過ごしたいと願わされています。 

救われた喜び    榎本 岩夫

 私は明石キリスト教会に導かれたのは昭和29年春の頃でした。日々の歩みの中で何も考えることも無く何となく過ごしている毎日でした。職場にあっても表面に出しませんでしたが何となく憂鬱な毎日を過ごしていました。そんなある日、友人が私のことを気づき一冊の本(聖書)をくれました。そして教会に行くよう進められました。

 自宅が教会の近くあり十字架を見上げながら会社に勤めておりました。しかし私の心は固く教会に行くことを拒んでいました。ある日の夜、(日曜日)知らずに教会の門をくぐっていました今思うと神様の導きであったと思います。伝道集会の夜でした何も分かりませんでしたが兄姉の暖かいもてなしと、先生の「良くいらっしゃいました」との言葉に心に安らぎがありました。それからは教会に心が引かれ、ある時、聖書の言葉が私の心に語りかけられました。マタイ4:4イエスは答えて言われた「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と書いてある。このみ言葉によって私は変えられました。

 今までは誰からも批判されないで自分の道をしっかりと進んでいく事が私にとって大切であると思っていましたが、もっと自分にとって必要なことは神様のみことばをしっかりと心に蓄えて主に従って行くことを知りました。そして結婚、クリスチャン家庭を建設し、信仰生活を今日まで歩んできました。残されている期間はどれだけか分かりませんが、信仰の創設者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。と語られている主に愛をもって仕えて行きたいと願っています。

イエス様に変えられた私    船越 武司

 私はずっとキリスト教を知らないまま育ったので、小さい時から罪を犯してきました。小学3年の時から盗みをしたり、中学からはツッパリだったのでタバコを吸ったり、酒を飲んだり、夜中遅くまでグループの仲間とブラブラしけんかをしたりして、私の心の中は罪でいっぱいでした。社会人になってから自動車会社に入社しましたが、ロボットみたいでむなしい生活でした。そして、土日はいつもパチスロに通っていました。その頃、同級生の田辺敏治さんからキリストのことを聞いて、明石キリスト教会に行ってみました。神のことばを聞いてすばらしい思い、聖書も買いました。けれども聖書を盗まれてしまい、教会に行くのをあきらめてやめてしまいました。23才から、また自分のことばかりの生活をし、神からはなれて私は勝手な生活をしていました。

 去年の12月頃、妻がイエス様を信じるようになり、私は22才の時に聞いたイエス様のことを、いつも忘れないでいました。ボチボチ教会へ通う時、ちょうどその頃、私は仕事の関係で腰を悪くし、仕事を退職しました。家にいる時間がたくさんあるので、私はパチスロに毎日通っていましたが、むなしい気持ちでいっぱいでした。日曜日には、妻と一緒に教会に行き、みことばを聞いて神様のことがわかるようになり、兄姉の交わりをしていて、だんだん教会はいいなあ、と思うようになりました。イエス様が私の罪のために十字架にかかってくれ、3日目によみがえって、今も生きていることを信じます。聖書を読んで落ち着きが与えられます。このみことばのいう通りにしていきたいです。また、交わり会でくわしく神様のことを知るようにしていきたいです。

 神様への思いで心はいっぱいで平安です。これからは、神様の前にへりくだり従っていきたいです。神様が私に健康と力を与えてくださり、仕事ができていることも、とてもうれしいです。毎日、神様に祈る時、とてもありがたい気持ちになります。また、賛美を歌っていると心がよろこびでいっぱいになります。
イエス様に感謝します。アーメン

イエス様に愛されている私    播磨 治子

 私はいつも自分が頑張らなければと、頑張る生活を続けていました。しかし、頑張っているのに、何か先の事を考えると不安でいつも満たされないものを感じていました。
 そのような生活をしている中で、妹が教会に導かれ救われたことがきっかけで、妹に勧められて教会に通うようになりました。初めは教会の雰囲気に馴染めず、続ける自信がありませんでしたが聖書の学びを受けてみたいと希望して、学びを受けることが出来ました。
 その学びの中で、自分が罪人であること、イエス様が私のような者の為に十字架にかかり身代わりとなって下さったことを知りました。今までのすべての罪を悔い改め、イエス様を信じ救われました。

救われてからの私は、このような私でも神様は愛してくださる。また、愛されている存在であることを知りました。そして、今の生活は毎日感謝と平安で満たされています。世間の人の目を気にする事無く、神様を意識し、神様を喜ぶ生活をすることが出来ています。

 神様を知らない人に、この喜びを知ってほしいと、いつも思っています。

自分に勝つカギ 前編   山脇久治 (スタッフ)

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」 第二コリント5:17

自分に勝てない自分
 父は大酒飲みで家庭を顧みない人でした。小さい時からそのような父を見て育った私は、「決して父のようにはなりたくない!母を助け、妹に良くしてやりたい。」と考えていました。53年も前の事です。私は自分に敗北している人を見ると、「何と意志の弱い、愚かな人だ」と思っていました。ですから、私は仕事をするようになってからもタバコを吸わず、真面目に働いていました。また、自分は意志の強い人間だと誇っていました。職場でも、家の近所の人達からも、私は良い青年だと見られていたのです。
 ところが・・・、私は会社の同僚に誘われて会社の部品を盗み出し、組み立て、それを売って金に換えるという恐ろしい罪を犯してしまったのです。またある日、私を喜ばせたいと願って母が作ってくれたぜんざいを、テーブルごとひっくり返してしまったこともあります。母は、涙を流しながら、黙って片づけをしていました。
 この二つの出来事だけでなく、私は、母や妹を苦しめたのです。人の前では自分を良く見せ、家族に対してはまるっきり正反対だったのです。そして、自分に敗北し続ける度に悩み、悶える日々が続きました。

救いに与る
 そのような日々を送る中で、妹がイエス・キリストを信じて救われました。今までとは全く変わってしまったのです。母のために、私のために、どんなに良くしてくれたか、今でも憶えています。わがままで勝手な私の要求にも、文句も言わずにするのです。近所の子どもたちを集めて主を伝え、よく世話をするようになったのです。
 続いて母も主を信じて新生しました。苦労の多かった母は重荷下ろして、主をほめたたえる日々を送るようになりました。父に対する今までの怒り、憎しみをすべて赦したのです。どうしてそんなことが出来るのか、私には不思議なことでした。しかし、母と妹の大変化は私には関係がないと思っていました。教会の兄姉や母や妹は、頑固な私が救われるために切に祈ってくれたのです。
 祈りに応えられる主は、一人のアメリカ人宣教師を遣わし、家の近くの広場で路傍伝道集会を開きました。私は、その集会を後ろの方で聞いていたのですが、「イエス・キリストを信じるなら、すべての罪は赦され、古いものは過ぎ去って新しくなれる」と言うのです。「この救い主イエスを信じませんか」と招き決心者を募ったのです。手を上げた私のために、宣教師は頭に手を置いて祈ってくれました。私の目から涙が流れていました。心がすべて洗われた喜びでいっぱいでした。父に対して抱いていた憎しみは消え、赦すことができました。母と妹に対しても、私のしてきたすべての言行を悔い改め、赦しを乞うことができました。イエス・キリストは私のすべての罪と赦し、罪の奴隷であった私を解放してくださいました。救い主イエス・キリストを信頼することが、「自分に勝つ」ことの第一であることを発見させていただいたのです。

パウロの葛藤を体験する
 主を信じた私は、もうこれで自分は自分に負けることはないと思っていたのですが、実際には「自分がしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪をおこなってしまう」(ローマ7:15)のです。祈ろうと願いながら祈れないのです。御言葉を読むことより、つまらない本を読んでいるのです。メッセージを聞くけれど、御言葉に従うことができないのです。かえって神に喜ばれない生活をしてしまうのです。絶えず自分の内からは、悪い考えが出てくるのです。ねたみ、そしり、高ぶりが自分を支配するのです。そればかりか、外からの誘惑にも簡単に負けてしまうのです。「ああ、私はダメだ・・・」と嘆く日々が続きました。「よし、頑張って打ち勝つぞ!」と力めば力むほど、できない自分に挫折するのです。ローマ7章15節から24節のパウロの葛藤を体験しました。

 自分に勝つカギ 後編を読む
 
 山脇久治師の紹介を読む

自分に勝つカギ 後編   山脇久治 (スタッフ)

前編がまだの方は前編から読まれるとわかりやすいと思います。
自分に勝つカギ 前編を読む

・自分に勝つ三つのカギ
あわれみ深い主は、常に「自分(生まれながら古い性質)に勝つ」ことのできるいくつかのカギを与えてくださいました。
その第一は、へりくだることです。主はパウロに「わたしの恵みはあなたに十分である。というのは、私の力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。また、「ですから、私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(第二コリント12:9)とパウロが言っていることの中に、私にも、「自分に勝つカギ」を主はくださっていることを知ったのです。弱いのに強いと思っている時に、自分に敗北していたのです。知性も感情も意思も弱く、欠けだらけの自分を常に覚えて、ひたすらキリストの力が私を覆っていだだける恵みに与る時、私もパウロと同じように「弱い時にこそ強い」と勝利者にしていただけたのです。これは、一日だけでなく、日々主の前にひれ伏して、この恵みに与ってきました。

第二は、御言葉によって生きることです。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による。」(マタイ4:4)40日、40夜の断食、まさに死を前にした空腹でした。主は、自らの弱さとサタンの誘惑に勝利されました。私が、自分に勝つことのできる第二のカギは、御言葉を食べ、御言葉によって強められて生きることです。朝のディボーションで御声を聞き、教えられ、励まされ、強められ、導かれています。朝は新約聖書を第二章通読、夜は旧約聖書を三章通読(聖書通読ノートに記入)し、暗唱聖句、聖書研究とほとんど御言葉づけの毎日です。御言葉によって生きる時、自分に打ち勝つ人となれるだけでなく、良い働きをすることができる者として整えられ、用いていただけることを体験しています。はじめからこのようにできたのでなく、長いクリスチャン生活の中で習慣づけられ、御言葉によって歩み、満たされ、導かれて生きることです。
「私は言います。御霊によって歩みなさい。」そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16 新改訳)「御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18 新改訳)
私は、毎日内におられ共におられる御霊を自覚し、認め、心から歓迎し、信頼します。挨拶し、ほめたたえます。御霊が私を全く支配されるように祈るのです。いつでも何かを語られるなら、みずから日々勝利するものであるだけでなく、御霊は御霊の実を結ばせて下さいます。神との関係の中で、愛、喜び、平安の実を。他者との関係の中で寛容、親切、善意能の実を。そして、自分に対して、誠実、柔和、自制に実を結ばせてくださいます。そして、私は自分に打ち勝つだけでなく、キリストに似た者と変えられ続けていきます。内におられ、共に歩み、助け、教え、導き、慰め、励ましてくださる御霊を心からほめたたえます。

山脇久治師の紹介を読む